
永代供養受付中
千手観音菩薩と地蔵菩薩の御守護のもと、
ご先祖様を心を込めて永代にわたりお祀りいたします。
法話
1
僧侶は、
本当に不自由なのか。

僧侶には、自由がない。
そう思っていませんか。
好きな髪型もできない。
好きな服も着られない。
食事にも決まりがある。
毎日の生活も、
修行の時間も、
ある程度決められています。
だから、 「僧侶は不自由ですね。」
そう言われることがあります。
でも、本当にそうでしょうか。
私たちは、 毎朝「今日は何を着よう」
と悩みません。
流行を追いかける必要もありません。
人からどう見られるかを
気にして服を選ぶこともありません。
「今日は何をしよう」と迷うこともありません。 一日の修行は、 すでに
仏道によって整えられています。
だからこそ、 余計なことに心を奪われず、
本当に向き合うべきものだけに、
心を向けることができます。
釈尊は、 私たちを苦しめるものは、
他人でも、 環境でもなく、
執着であると説かれました。
もっと欲しい。 認められたい。
失いたくない。 思いどおりにしたい。
その心に振り回されている限り、
本当の自由はありません。
道元禅師は、 「自己をならうというは、
自己をわするるなり。」
とお示しになりました。
自己を忘れるとは、
自分を失うことではありません。
自分への執着を離れ、
ありのままのいのちを生きることです。
僧侶は、 自由を捨てた人ではありません。
自由になるために、出家した人です。
もちろん、 私たちはまだ修行の途中です。
だから毎日、 坐禅をし、 読経をし、
作務をし、 何度も何度も、
自分自身を見つめ直します。
本当の自由とは、
何でも好きなことができることではありません。 何ものにも縛られない心を育てること。
それが、 仏道の目指す自由です。
あなたにとって、本当の自由とは何ですか。
合掌 🙏🏻
この方は、まだ、この世にいる。
そう伝えられています。
この方は、 仏さまではありません。
神さまでもありません。
**阿羅漢(あらかん)**と呼ばれる、
釈尊のお弟子さまです。
しかし、 ただのお弟子ではありません。
釈尊の教えをそのまま実践し、
悟りを成就された僧侶です。
だから私たち僧侶は、
阿羅漢を深く敬います。
そこには、 自分たちが歩むべき姿があるからです。
時代が変わっても、 国が変わっても、
仏法は変わりません。
阿羅漢は、
どの時代でも釈尊の教えを生きることができる。
そのことを、 自らの修行によって示してくださいました。
だから私たちも、
自分の都合に合わせて仏法を変えるのではなく、
自分自身を仏法へと調えていく。
それが修行です。
阿羅漢は、 十六人だけではありません。
釈尊の時代から今日まで、
数え切れないほど多くの阿羅漢が誕生しました。
その中でも、 釈尊から正法護持を託された十六人が、
十六羅漢として大切に受け継がれています。
上乘寺にも、
その十六羅漢をお祀りする十六羅漢堂があります。
どうか一尊一尊のお顔を、 ゆっくりご覧ください。
そこにあるのは、 昔の僧侶の姿ではありません。
今もなお続く、仏道そのものの姿です。
釈尊が示された道を、 阿羅漢が歩み、
その道を、私たちもまた歩み続けます。
また次の話でお会いしましょう。
合掌
2
この方は、
今もこの世にいる。

3
悟ったら、
修行は終わるのか。

悟りを開いたら、
修行は終わる。
そう思っていませんか。
実は、
仏教ではそう考えません。
前回ご紹介した阿羅漢は、
釈尊の教えを自ら実践し、
悟りを成就された僧侶です。
しかし、
その歩みは、
悟りを得たことで終わりませんでした。
釈尊は、
阿羅漢たちへ願われたと伝えられています。
「正法を護り、人々を利益しなさい。」
だから阿羅漢は、
自らの悟りだけを求めた僧侶ではありません。
悟りを得たあともなお、
仏法を護り、
人々を導き、
修行を続けられた僧侶なのです。
だからこそ、
私たち曹洞宗の僧侶も、
その姿を深く敬います。
そして、
その歩みを受け継ごうと願っています。
道元禅師は、
「修証一等」
と説かれました。
修行と悟りは、
別々のものではありません。
悟ったから修行を終えるのではなく、
修行そのものが仏道なのです。
だから私たちもまた、
毎日坐禅をし、
読経をし、
作務をし、
戒を護りなど、
修行を続けています。
何か特別なものを得るためではありません。
自分自身を、仏さまの教えへと調えていくためです。
阿羅漢が歩まれた道は、
二千五百年前だけのものではありません。
その道は、
今もなお、
世界中の僧侶によって歩み続けられています。
そして私たち上乘寺もまた、
その法灯を受け継ぎ、
今日も静かに、
その一歩を歩んでいます。
合掌🙏🏻
僧侶は、
財産を持ちません。
そう聞くと、
不自由だと思われるかもしれません。
しかし仏教では、
僧侶は本来、
人々の布施だけによって生きる道を選びます。
それは、
貧しくなるためではありません。
貪りや慢心を離れ、
人々との信頼の中で生きるためです。
だから托鉢は、
食べ物やお金をいただくための修行ではありません。
自分自身を修めるための修行なのです。
寺を一歩出た、
その瞬間から修行は始まっています。
歩き方。
立ち方。
目線。
合掌。
その姿は、
まだ一言も話していなくても、
仏法を伝えています。
古くから、
「仏法は、僧侶の歩く姿から伝わる」
とも教えられてきました。
だから僧侶は、
人々の信頼によって生かされるからこそ、
その信頼に値する生き方を、
一日一日積み重ねていきます。
釈尊が示されたこの道は、
曹洞宗を開かれた道元禅師によっても大切に受け継がれました。
日々の修行そのものが仏道であるという教えは、
今も私たちの歩みの中に息づいています。
上乘寺でも、
この古くから受け継がれてきた托鉢の精神を、
何よりも大切にしています。
現在は毎日行っているわけではありませんが、
この尊い修行を未来へ受け継ぐため、
少しずつ托鉢を続けています。
合掌
4
僧侶は、
なぜ財産を持たないのか。

5
坐禅は、
座っている時だけなのか。

多くの方は、
坐禅とは、
静かに座る時間だと思われています。
しかし、
仏教の修行では、
坐禅は座っている時間だけではありません。
坐禅は、
一日の生き方そのものです。
釈尊は、
心を観る修行無常を観察する修行を説かれました。
歩く時も。
食事をいただく時も。
掃除をする時も。
人と話す時も。
今この瞬間、
自分の心はどうなっているのか。
怒りは起きていないか。
欲に引っ張られていないか。
慢心していないか。
眠っていないか。
その心を、
ありのままに観続けること。
それが修行でした。
だから僧侶は、
掃除をするのも、
読経をするのも、
托鉢をするのも、
食事をいただくのも、
すべて心を調えるために行います。
道元禅師は『普勧坐禅儀』の冒頭で、
「道本円通」
と示されました。
仏の道は、
もともと誰にも備わっています。
だから修行とは、
何か特別な人間になることではありません。
自分の都合や欲望に合わせて生きるのではなく、
一つ一つの行いを通して、
本来の心へと調えていくことです。
だから私たち禅僧侶は、
坐禅のために生活するのではありません。
生活そのものを坐禅にしていく。
そのために、
今日もまた、
静かに修行を続けています。
お寺で僧侶が掃除をしている姿を見て、
「お寺をきれいにしている。」
そう思われる方が多いかもしれません。
もちろん、お寺はきれいになります。
しかし、それは作務の修行ではありません。
作務とは、自分の心を調えるための修行です。
草を抜いても、また生えてきます。
落ち葉を掃いても、また落ちてきます。
掃除をしても、また汚れます。
だから作務には、本当の意味で「終わり」はありません。
その中で学ぶのは、
早く終わらせようと焦る心。
思い通りにならず腹を立てる心。
「まだ終わらないのか」と疲れてしまう心。
そして、
「今日はここまで。」
と、執着せずに手を止めること。
作務とは、仕事を終わらせるためではなく、
その間に現れる自分の心を知るための修行なのです。
釈尊は、歩くときも、立つときも、働くときも、
常に心を観るよう教えられました。
道元禅師もまた、
日々の行持そのものが仏道であると説かれています。
だから作務は、坐禅とは別の修行ではありません。
作務そのものが、坐禅なのです。
お寺が少しきれいになることよりも、
昨日より少しだけ、自分の心が穏やかになること。
その積み重ねが、修行なのだと思います。
合掌
6
掃除は、
お寺をきれいに
するためだけなのか。

7
僧侶は、
なぜ食事に
も作法があるのか。

僧侶は、
ご飯を食べる練習をしているのではありません。
自分の心を見る修行をしています。
応量器を使い、
静かに食事をし、
決められた順序で器を扱い、
一つひとつの作法を丁寧に行います。
しかし、
修行の目的は、
それらの作法を完璧に行うことではありません。
本当の目的は、
その一つひとつの動きの中で、
どのような心が現れるのかを見ることです。
「早く食べたい。」
「もっと欲しい。」
「これは苦手だ。」
「面倒だ。」
「隣の人は自分より多い。」
「早く終わらないかな。」
そうした心は、
普段は気づかないほど静かに、
私たちの中に生まれています。
だからこそ、
作法を大切に守ります。
作法は形式ではありません。
貪り、怒り、愚かさという三毒から心を護るための智慧です。
そして、
応量器という修行が、
自分の心をありのまま映し出す、
曇りのない鏡であるためです。
だから修行とは、
美しく食べることではありません。
静かに食べることでもありません。
器を上手に扱うことでもありません。
一口ごとに現れる自分の心を知ること。
それが、
応量器の修行です。
お釈迦さまも戒律の中で、
食べ方だけではなく、
「貪る心」
「比べる心」
「求め続ける心」
を繰り返し戒められました。
食事の姿には、
その人の心がそのまま現れるからです。
だから私たちは、
お米を食べているのではありません。
自分の心と向き合っているのです。
合掌🙏🏻
僧侶の部屋には、
ほとんど何もありません。
それは、
物が買えないからでも、
我慢しているからでもありません。
釈尊は、
衣は身体を守るため、
食事は命を支えるため、
住まいは雨風や暑さ寒さをしのぐためのものと説かれました。
修行とは、
必要以上に求める心を手放し、
「これだけあれば十分です。」
と言える心を育てることでもあります。
物が増えれば、
便利になる一方で、
守るものも、
失う不安も、
執着も増えていきます。
だから僧侶は、
できる限り少ないもので暮らします。
一方、
お寺は三宝が現れる場所です。
仏さまをお祀りし、
人々が手を合わせ、
仏道に触れる場所。
本堂の仏像や仏具、
荘厳の多くは、
檀信徒の皆さまが、
仏法が永く伝わることを願って布施してくださったものです。
その美しい空間は、
訪れる人の心を自然と静め、
仏さまへと向かわせてくれます。
だから、
僧侶は自分のためには求めず、
お寺は三宝を護るために大切に荘厳されてきました。
豊かさとは、
たくさん持つことではありません。
足りていることに気づくこと。
それが、
釈尊の教えが示す豊かさなのです。
合掌
8
豊かさとは、
たくさん持つことなのか。

9
袈裟は、
ただの衣ではない。

僧侶は、
ご飯を食べる練習をしているのではありません。
自分の心を見る修行をしています。
応量器を使い、
静かに食事をし、
決められた順序で器を扱い、
一つひとつの作法を丁寧に行います。
しかし、
修行の目的は、
それらの作法を完璧に行うことではありません。
本当の目的は、
その一つひとつの動きの中で、
どのような心が現れるのかを見ることです。
「早く食べたい。」
「もっと欲しい。」
「これは苦手だ。」
「面倒だ。」
「隣の人は自分より多い。」
「早く終わらないかな。」
そうした心は、
普段は気づかないほど静かに、
私たちの中に生まれています。
だからこそ、
作法を大切に守ります。
作法は形式ではありません。
貪り、怒り、愚かさという三毒から心を護るための智慧です。
そして、
応量器という修行が、
自分の心をありのまま映し出す、
曇りのない鏡であるためです。
だから修行とは、
美しく食べることではありません。
静かに食べることでもありません。
器を上手に扱うことでもありません。
一口ごとに現れる自分の心を知ること。
それが、
応量器の修行です。
お釈迦さまも戒律の中で、
食べ方だけではなく、
「貪る心」
「比べる心」
「求め続ける心」
を繰り返し戒められました。
食事の姿には、
その人の心がそのまま現れるからです。
だから私たちは、
お米を食べているのではありません。
自分の心と向き合っているのです。
合掌🙏🏻
安居(あんご)とは、
僧侶が一つの場所に集まり、
集中的に修行を行う期間のことです。
その始まりは、約2500年前。
釈尊の時代、雨季になると草木は芽吹き、
虫や小さな生き物たちがあらゆる場所に現れました。
その時期に歩き続ければ、
多くの命を知らず知らずのうちに傷つけてしまいます。
そこで釈尊は、弟子たちに一つの場所へ留まり、
雨季の間は集中的に修行するよう定められました。
それが安居の始まりです。
「僧堂に籠もって修行をするなんて、
現実から逃げているだけではないか。」
そんな言葉を耳にすることがあります。
しかし、安居は現実から逃げるためのものではありません。
むしろ、自分自身から逃げられなくするための修行です。
朝起きる瞬間から、夜眠るまで。
坐禅も、作務も、読経も、食事も、休息も、僧団生活も。
安居では、一分一秒たりとも修行ではない時間はありません。
思い通りにならない毎日。
自分の都合よりも修行が優先される生活。
その中で現れてくるのは、怒りや欲、怠けたい心、
認められたい心、そして我執です。
だから安居とは、
世の中から離れることではなく、
自分の心と徹底的に向き合うための時間なのです。
昨日、上乘寺の弟子も安居へ入りました。
これから先、さまざまな僧堂や道場で修行を重ねながら、
釈尊の教えを身をもって学び続けていきます。
師として、その歩みを静かに見守り、
再び共に修行できる日を楽しみにしています。
合掌
10
安居は、
現実から逃げるためなのか。

11
一歩も、修行です。

一歩も、修行です。
「どうして僧侶は歩き方まで教わるのですか。」
そんな質問をよくいただきます。
仏道には、歩き方、立ち方、座り方、食事、衣の着方、器の持ち方に至るまで、細かな作法や清規があります。
それを見て、
「日本の礼儀でしょう。」
「お寺の文化でしょう。」
「美しく見せるためでしょう。」
そう思われることも少なくありません。
しかし、本来の意味は違います。
厳しい作法や清規は、礼儀や形式のためではありません。
一人ひとりの僧侶が、その姿そのもので仏道を伝えるためにあります。
人は説法を聞く前に、
その人がどう歩くのか。
どう立つのか。
どう人に接するのか。
どう物を扱うのか。
その姿を見ています。
「この人の話を聞いてみたい。」
「このお寺へ行ってみたい。」
「この人と一緒に修行してみたい。」
そうした信頼や安心は、言葉よりも先に、生き方から生まれます。
だから釈尊は、歩き方にまで修行を定められました。
一歩は、目的地へ着くためだけのものではありません。
その一歩が、誰かに仏道への信頼を育てることもあれば、
反対に、その信頼を失わせてしまうこともあります。
だから僧侶は、
自分のためだけではなく、
これから出会うすべての人のために歩きます。
修行とは、
特別な時間だけにあるものではありません。
口が法を説く前に、
身体が法を説いています。
だから仏道は、
足元から始まるのです。
合掌
「それはダメ!!」
そう言う前に、
釈尊は、
まず自分自身を確かめなさいと教えられました。
律蔵には、
僧侶が仲間を諭す方法まで細かく定められています。
なぜなら、
怒りに任せた一言は、
一人の僧侶だけではなく、
僧団全体の調和を壊してしまうことがあるからです。
だから釈尊は、
人を正す前に、
まず自分へ四つの問いを向けなさいと教えられました。
✔ 身と言葉の行いは正しいか。
✔ その言葉は慈悲から生まれているか。
怒りや仕返しの心ではないか。
✔ その教えを正しく理解しているか。
思い込みではなく、仏道や戒律に基づいて話そうとしているか。
✔ 優しく穏やかに伝えられるか。
もし、
この四つのうち一つでも欠けているなら、
まず自分を整えなさい。
それが難しいなら、
自分よりふさわしい人にお願いしなさい。
それが釈尊の教えです。
大切なのは、
誰が注意するかではありません。
相手がより善く生きられることです。
この教えは、
僧侶だけのものではありません。
家庭でも、
職場でも、
友人との間でも同じです。
相手の間違いはすぐ見えても、
「私は今、その言葉を伝えるにふさわしい人だろうか。」
と、自分を見つめることは意外と少ないものです。
もし誰かを注意する前に、
この四つを自分へ問いかけることができたなら、
争いは減り、
信頼は育ち、
人との関係はもっと穏やかになっていくでしょう。
釈尊は、
人を変える前に、まず自分を整えなさい。
そう教えられました。
合掌🙏🏻
12
人を正す前に、
自分を整える。

13
「いい人」になることが、修行なのか。

いい人になる「私」など、
どこにいるのでしょう。
仏道は、 「いい人」
になるための道ではありません。
もちろん釈尊は、 善い行いを勧め、
悪い行いを離れることを繰り返し説かれました。
しかし修行の目的は、
「私はいい人だ」
という新しい自分を作ることではありません。
人に褒められたい。
嫌われたくない。
立派な人だと思われたい。
そのために親切にし、 そのために我慢し、
そのために自分を苦しめているなら、
善いことをしているように見えても、
心の奥ではまだ「私」に縛られていることがあります。
「私はこれだけしてあげたのに」
「私はこんなに我慢したのに」
「どうしてわかってくれないの」 そんな苦しみは、
「いい人でありたい」
という執着から 生まれることもあります。
これは、 私たちの日常にも大切な教えです。
嫌われるのが怖くて、 何でも引き受けなくていい。
「いい人」でいるために、
自分を壊すまで我慢しなくていい。
誰かに感謝されなかったからといって、
自分の善い行いまで後悔しなくていい。
仏道が見つめるのは、 人からどう見えるかではなく、
その行いが、どんな心から生まれたのか。
貪りからか。
怒りからか。
無知からか。
だから戒律も、 僧侶を「立派な人」
に見せるためのものではありません。
誰も見ていなくても自らを律する。
褒められなくても善を行い、
知られなくても悪を離れる。
そこには、 「いい人だと思われたい」
という 報酬さえ必要ありません。
修行とは、 「もっと立派な私」を作ることではなく、
「私」への執着を、 少しずつ手放していくこと。
目指すのは、 いい人に見えることではなく、
貪り・怒り・無知に支配されないこと。
誰かに見せるための善ではなく、
善そのものを選べる心を育てていく。
仏道
中道は、真ん中ではありません。
「何事もほどほどに。」
「やりすぎないことが大切。」
「極端にならず、バランスよく。」
これが「中道」だと思われることがあります。
しかし、
釈尊が説かれた中道は、
単なる「ほどほど」という意味ではありません。
悟りを開かれた釈尊が、
最初の説法で示されたのが中道でした。
釈尊は二つの極端を示されます。
一つは、
欲望や快楽を追い求める生き方。
もう一つは、
自分の身体を苦しめる苦行。
では、
その二つを半分ずつにすればよいのでしょうか。
違います。
釈尊は、
そのどちらにも進まない道を発見されました。
それが、
正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。
八正道です。
つまり中道とは、
「多すぎるから減らそう」
「少なすぎるから増やそう」
という量の問題ではありません。
大切なのは、
その行いの「質」です。
たとえば仕事。
たくさん働けば極端で、
少し働けば中道なのではありません。
今の働き方は、
正しい見方に基づいているだろうか。
人を傷つける言葉を使っていないだろうか。
正しい行い、正しい生活になっているだろうか。
必要な努力をしているだろうか。
今ここで起きていることに、
きちんと気づいているだろうか。
「どれくらいするか」ではなく、
「どのようにするか」。
八正道に照らして、
自分の行いを確かめていく。
だから中道は、
何でも半分にする教えでも、
無難に生きる教えでも、
頑張りすぎないための言葉でもありません。
むしろ、
歩むべき道が明確に示された、
とても具体的な教えです。
二つの極端の間で、
ちょうどいい場所を探すのではない。
正しい道を歩む。
釈尊がその道として示されたのが、
八正道。
それが、
仏道でいう「中道」です。
合掌
14
中道は、
「真ん中」のことなのか。

15
本当のことでも、
言ってはいけない。

本当のことでも、言ってはいけない。
「正しいことを言ったのに、
なぜか関係が悪くなった。」
そんな経験はありませんか?
「嘘はついていない。」
「本当のことを言っただけ。」
でも、もしかすると、
「正しいかどうか」だけを
考えていたのかもしれません。
釈尊は、
言葉をそれだけで選ばれませんでした。
アバヤ王子との対話の中で、
大切な基準を示されています。
その言葉は、
真実か。
相手にとって有益か。
そして、
今が伝えるべき時なのか。
真実であっても、
相手のためにならないことなら語らない。
真実で、有益であっても、
伝える時を見極める。
しかしこれは、
「相手が傷つくことは言わない」
という教えでもありません。
本当に相手のためになるなら、
耳の痛いことを伝えなければならない時もあります。
その時も、
「私は正しいから言う」のではなく、
「この言葉は、
この人のためになるだろうか。」
と確かめる。
腹が立った時、
正しいことをすぐ全部ぶつけなくていい。
反対に、
嫌われることを恐れて、
必要なことまで黙らなくていい。
話すことも修行。
黙ることも修行。
家庭でも、職場でも、
友人との間でも同じです。
言葉を口にする前に、
ほんの一瞬、
真実か。
有益か。
今なのか。
と確かめる。
それだけで、
人との関係は少しずつ変わっていきます。
毎日使っている同じ口が、
人を傷つけるものにも、
人を支えるものにもなる。
釈尊の教えは、
特別な場所だけで実践するものではありません。
今日、誰かに話すその一言から、
仏道は始まります。
合掌
頑張っているのに、
なぜか苦しみが増えていく。
そんな経験はありませんか?
「もっと頑張らなければ」
「ここで諦めてはいけない」
そう思って、
さらに努力する。
でも仏道では、
頑張ること自体を、
善いとは考えません。
間違った方向に努力すれば、
努力するほど、
苦しみを増やすこともあるからです。
釈尊は八正道の一つとして、
正精進を説かれました。
それは、
ただ一生懸命になることではありません。
まだ生じていない不善を防ぐ。
すでに生じた不善を捨てる。
まだ生じていない善を育てる。
すでにある善をさらに育てる。
では、
何が「善」で、
何が「不善」なのでしょう。
自分が「良い」と思えば、
それで善なのでしょうか。
たとえば、
「家族を守るために、一生懸命働く。」
とても善いことに聞こえます。
でも、そのために、
健康を壊し、
家族と過ごす時間を失い、
誰かを踏みつけ、
怒りやストレスに支配されているとしたら。
「家族のため」という言葉だけで、
その努力すべてが正しいとは言えません。
仏道では、
自分に都合がいいか、
目的が立派に見えるかだけで、
善・不善を決めません。
その行いは、
自分や他者に苦しみをもたらすのか。
その心は、
貪り、怒り、無知を育てているのか、
それとも離れる方向へ向かっているのか。
そこまで見て、
努力の方向を確かめます。
だから、
続けることが正精進の時もある。
やめることが正精進の時もある。
始めることが正精進の時もある。
そもそも始めないことが正精進の時もある。
大切なのは、
「もっと頑張れるか」ではなく、
「私は今、
何を育てるために頑張っているのか。」
努力の量ではなく、
その努力がどこへ向かっているのか。
それを見極めて努力する。
それが、
釈尊の説かれた正精進です。
合掌
16
頑張れば、
頑張るほど良いのか。

17
嫌いな人を、
無理に好きに
なる必要はない。

どうしても苦手な人。
会うだけで心が乱れる人。
思い出すだけで嫌な気持ちになる人。
そんな人を、
「嫌ってはいけない」
「もっと優しくしなければ」
と、無理に好きになろうとしたことはありませんか?
でも、仏道の慈しみは、
「すべての人を好きになりましょう」
という教えではありません。
好きになることと、
憎まないことは違います。
釈尊は、誰かへの怒りや憎しみが生じた時、その心を鎮める方法を具体的に説かれました。
慈しみを向ける。
慈悲を向ける。
平静な心を育てる。
それでも難しい時には、
その人に心を向けず、注意を向けない。
そして、その人も自分の行いの結果を受ける者である、と見る。
つまり仏道は、
「嫌いな人とも無理に仲良くしなさい」
という教えではありません。
釈尊は、善い友と共に過ごし、善い行いや智慧から学ぶことも、とても大切にされました。
自分の心や行いを乱す人や環境から、距離を取る必要がある時もあります。
誰かの行いが間違っているなら、
間違っていると判断してもいい。
一緒にいることで互いに苦しむなら、
離れてもいい。
離れることと、
憎むことは違います。
ここに、釈尊が残された心の訓練の素晴らしさがあります。
相手を無理に変えるのではなく、
自分の心の中で、
憎しみを育てない。
家族でも、職場でも、友人関係でも、
どうしても合わない人はいます。
そんな時、
距離を取るべきなら距離を取る。
それでも、相手の不幸を願わない。
その人のために、
自分の心まで憎しみで満たす必要はありません。
これもまた、
今日から実践できる仏道です。
合掌
ある夜、
釈尊はウルヴェーラ・カッサパに言われました。
「もし差し支えなければ、
今夜、火堂に泊まらせてください。」
カッサパは止めました。
そこには、
恐ろしく、猛毒を持つナーガがいたからです。
「あなたに危害を加えるかもしれません。」
それでも釈尊は、
「おそらく私を傷つけることはないでしょう。」
と言われました。
そして、
たった一人で、
ナーガのいる火堂へ入っていかれました。
草を敷き、
結跏趺坐し、
身体をまっすぐにして、
静かに坐られました。
釈尊が入ってきたことに気づいたナーガは、
怒り、煙を吐き出しました。
すると釈尊も、
神通力によって煙を発せられました。
ナーガの怒りは、
さらに激しくなります。
ついには、
炎を吐き出しました。
釈尊もまた、
炎を発せられました。
夜の火堂は、
まるで建物そのものが
燃え上がっているかのように輝きました。
外から見ていた修行者たちは思いました。
「あの立派な沙門も、
ナーガにやられてしまうだろう。」
そして、
夜が明けました。
釈尊は、
ナーガを殺してはいませんでした。
皮も、肉も、骨も、
何一つ傷つけることなく、
その力を制し、
ナーガを鉢の中に入れて、
カッサパの前に現れました。
そして言われました。
「カッサパよ、これがあのナーガです。
その火は、私の火によって制せられました。」
釈尊が示された力は、
相手を憎み、
傷つけ、
滅ぼす力ではありませんでした。
仏道では、
慈しみは、弱さではありません。
恐れないことと、
憎まないことは、
同時にできる。
怒りに怒りで支配されず、
恐怖に恐怖で支配されず、
それでも、
必要な時には向き合う。
釈尊が残された修行とは、
ただ優しい人になることではありません。
どのようなものを前にしても、
自分
18
慈しみは、
弱さではない。

19
「死」が怖いからこそ、
今を生きる。
あなたの大切な人も、
いつか死にます。
あなたも死にます。
私も死にます。
そして、その時がいつなのか、
誰にも分かりません。
私も怖いです。
自分が死ぬことも。
それ以上に、
大切な人を失うことが怖い。
釈尊もまた、
老い、病、死を免れない自分が、
同じく老い、病み、死んでいくものに
安らぎを求めていることに気づかれました。
だから釈尊は、
死から目を背けたのではありません。
死を超える道を求められました。
でも、
死を超えることなど、
本当にできるのでしょうか。
身体は必ず死にます。
生まれたものは、
必ず老い、やがて滅びます。
だから仏道が目指すのは、
「死なないこと」ではありません。
もっと根本です。
生まれなければ、
死ぬこともない。
釈尊は、
「私」と呼んでいる身体も、
感受も、心も、
すべて生じては変わり、
滅していくものだと観られました。
そこに、
変わらない「私」は見つからない。
それでも私たちは、
「私」
「私のもの」
と握りしめる。
その執着と渇愛が尽きた時、
再び「生」が生じる原因も尽きる。
生まれなければ、
老いることも、
死ぬこともない。
釈尊はこれを、
不死 — Amata
と説かれました。
だから『法句経』には、
「不放逸は不死への道。
放逸は死への道。」
とあります。
仏道は、
死を考えないための教えではありません。
生と死そのものから、
解放されるための道です。
だから私は急ぎたい。
死が怖いからこそ、
死を忘れたくない。
今日も坐る。
今日も仏道を歩む。
今日も手放す。
マーラよ。
まだ私は、
あなたを完全には超えていない。
だから、
捕まる前に、修行する。
合掌
摩訶迦葉尊者。
釈尊の十大弟子の一人であり、「頭陀第一」と称された方です。
森に住み、托鉢によって食を得て、
糞掃衣をまとい、少欲知足に生きました。
しかし、尊者の本当の凄さは、
ただ厳しい修行をしたことではありません。
年老いた尊者に、釈尊は、
もうそのような厳しい生活をしなくてもよいと勧めました。
それでも尊者は続けました。
なぜか。
後世の人々への慈悲のためです。
いつか未来の修行者が、
「釈尊の弟子たちは、このように修行していたのだ」
と知り、その行を受け継ぐかもしれない。
すでに悟りを得た老僧が、自分のためではなく、
まだ会ったこともない未来の修行者のために、
その姿を残そうとしたのです。
釈尊は、
「善いかな、善いかな、迦葉よ」
と讃えました。
尊者は、在家の家を訪ねても、
布施や待遇を期待しませんでした。
「もっと頂きたい」
「良いものを頂きたい」
「尊敬されたい」
そのような心で在家と接しない。
法を説く時さえ、
自分が評価されるためではなく、
ただ相手の利益と慈悲のために説く。
僧侶の修行は、仕事ではありません。
仏法は、商売ではありません。
釈尊が示した道を、自らの身をもって行ずることです。
そして摩訶迦葉尊者が深く憂えたのが、
正法が後世に残るかということでした。
尊者の問いに、釈尊は「本物の金と偽物の金」の譬えを説きます。
本物によく似た偽物が現れると、やがて本物が分からなくなる。
仏法も同じです。
仏教の姿をしていても、修行が失われ、
戒めが軽んじられ、
利得や名声が尊ばれるようになれば、次の世代は、
「これが仏教なのだ」
「これが僧侶なのだ」
と思うようになる。
だから尊者は、老いてなお、自ら行じ続けました。
釈尊は、自らの糞掃衣を摩訶迦葉尊者に与えました。
そして禅門では、
世尊拈華 迦葉微笑
と伝え、尊者を釈尊の法を嗣いだ西天第一祖と仰ぎます。
しかし、祖師は歴史の中に飾っておくための存在ではありません。
袈裟を受け継ぐとは、
名前を受け継ぐことではない。
法を嗣ぐとは、
系図に名を連ねることではない。
その行を受け継ぐことです。
今回、上乘寺で修する晋山結制の本則は、
「拈華微笑」です。
この安居では、摩訶迦葉尊者をただ語るのではなく、
尊者が後世に残そうとした行を、私たち自身の身で問い直します。
私たちは、何を受け継いだのか。
そして、次の世代に何を残すのか。
正法を残したければ、
まず正法を行じなければならない。
摩訶迦葉尊者が未来の修行者のために残した行を、
今度は私たちが次の世代へ。
そのための安居でありたいと思います。
合掌
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慈しみは、
弱さではない。
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「私」を
生きようとするな。
腹が立った。
だから、怒った。
傷ついた。
だから、言い返した。
怖くなった。
だから、逃げた。
そして言う。
「私は、そう思った。」
本当に?
釈尊は、
接触によって感受が生じ、
感受によって渇愛が生じる、
と説かれました。
見る。
聞く。
触れる。
快い。
不快だ。
欲しい。
嫌だ。
そして反応する。
あまりにも速いから、
その反応を「私」だと思っている。
これが、
私たちが「今」と呼んでいるものの
正体かもしれません。
だから仏道は、
「今に集中しましょう」
という話ではありません。
鳥の声を聞く。
食事を丁寧に味わう。
それで心は静まるかもしれない。
しかし釈尊が示されたのは、
もっと深いところです。
怒った時、
怒りを見るだけでは足りない。
誰が怒っているのか。
探してみる。
身体がある。
感受がある。
思いがある。
意識がある。
すべて生じて、
すべて消えていく。
では、
そのどこに「私」がいる?
釈尊は説かれました。
「見られたものには、ただ見られたものを。
聞かれたものには、ただ聞かれたものを。」
「私」が見る前に、
見ることがある。
「私」が苦しむ前に、
条件によって感受が生じている。
この身体の中で、
生じる。
消える。
生じる。
消える。
「私」さえも、
つくられては消えていく。
だから坐る。
この身体ほど、
仏法を学ぶための道場はない。
道元禅師は、
「大都当処を離れず」
と示されました。
今を探す必要などない。
今は一度も、
あなたから離れていない。
ただ、
「私」が現れた瞬間、
世界を「私の世界」にしてしまう。
それを見る。
掴まない。
「私」にしない。
その時、
反応ではなく、
智慧がはたらき始める。
今を生きようとするな。
まず、
今を生きている「私」を疑え。
合掌
